石川啄木の「大逆事件」認識―事件の国際的影響との関連において

 

明治大学教養デザイン研究科・教授

山泉進

石川啄木が「大逆事件」に強い関心をもち、それが詩歌の創作へと反映されるとともに、また弁護人であった平出修をとおして、「大逆事件」の本質を後世へと書き遺したことはよく知られている。戦前からこの問題に関心をもった吉田孤羊は『石川啄木と大逆事件』(1967)にまとめ、その後、神崎清、岩城之徳、清水卯之助、近藤典彦、小川武敏らによって研究が深められてきた。私は「大逆事件」研究者として、とりわけ大原慧によって手を付けられてきた「大逆事件の国際的影響」という枠組みのなかで、この事件が海外へとどのように伝達され、それに対する抗議運動がどのようにおこなわれたかについて研究してきた。本報告においても、この点に焦点をあてて考えてみたい。すでに2010年にはオーストラリア・ボンド大学において「大逆事件100年」を記念した国際シンポジウムが開催され、私の報告は『大逆事件と日本』(Japan and High Treason Incident, edited by Masako Gavin and Ben Middleton, Routledge, 2013)に収録されている。

「大逆事件」は、1910525日、長野県明科の製材所に勤務する宮下太吉と新村兄弟の逮捕から始まっている。当初は、爆発物取締罰則違反事件として扱われた事件は、531日幸徳秋水を首謀者とする天皇暗殺未遂事件とされ、幸徳等7名が予審請求された。当時の日本の憲法(大日本帝国憲法)は、第1条において「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定し、天皇は「国ノ統治権」、つまり立法・行政・司法を憲法の「条規」に依って「総攬」し、かつ陸海軍を「統帥」する立場にあった。そして、その地位は「神聖ニシ侵スヘカラス」として、「神」の末裔としての位置づけがなされていた。したがって、刑法上も特別に「皇室ニ対スル罪」が設けられ、第73条においては大逆罪、第74条において不敬罪が規定されていた。第73条は、「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という条文で、「危害」があると認められれば、「予備」「陰謀」「未遂」を問わず死刑が適用された。しかも、その裁判は、裁判所構成法ならびに刑事訴訟法によって、大審院に設置された「特別法廷」において、「一審ニシテ終審」、つまりただ1回の裁判によって結審されるものとされた。

戦後、天皇の「人間宣言」を契機にして、また象徴天皇制の確立により、大逆罪が刑法から削除されるまでの間に、大逆罪が適用された事件は4件あった。1つは幸徳秋水を首謀者として26名の社会主義者や無政府主義者たちが被告とされた事件、一般には、この事件を指して「大逆事件」といっている。その他に、関東大震災後の朴烈・金子文子事件、難波大助事件、515事件の直前におきた李奉昌事件がある。いずれの大逆事件においても、厳しい報道管制がひかれ、ジャーナリズム(新聞)に対しては新聞紙法あるいは不敬罪による取締りと威嚇がなされた。つまり「知る権利」は極端に制限され、戦後になって初めて、これらの事件の解明がなされたのである。

「大逆事件」との関連で、石川啄木が注目されてきたのも、この言論統制に関係する点からであった。3つの点を提起したい。@は、啄木が幸徳秋水らの逮捕が大逆罪に関係する事件であることをどの時点で認識したのかという点である。当初、「大逆事件」は新聞紙上では「爆弾事件」「重大事件」としてだけ報道された。当局が、大逆事件であることを公表するのは、1910119日の公判開始決定がなされてからである。啄木は、東京朝日新聞の校正係として、「大逆事件」関係のニュースに接することができる特別の立場にあった。たとえば「時代閉塞の現状」を執筆した時点において、あるいは「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」を創作した時点において、啄木は公表されていない「大逆事件」の存在を知っていたのかどうか、この点について考えてみたい。Aは、「大逆事件」にたいする海外での抗議活動をどのように認識していたかという点である。ニューヨークのエマ・ゴールドマンたちのマザー・アース・グループによって呼びかけられた日本政府に対する海外での抗議活動は、サンフランシスコ、ロンドン、ベルリン、パリへと広がっていった。オーストラリアでの反響について報告してみたい。Bは、啄木の「大逆事件」認識そのものである。それは、「事件経過及び附帯現象」あるいは「A Letter From Prison」等によって知ることができる。啄木は、「大逆事件」とされているものが、3つの異なる事件を1つにまとめたものであることを見抜いた。つまり、「大逆事件」は検事や裁判官たちによって1つの事件として架空に「構成」されたものとして認識した。弁護士であった平出修の影響があったことは知られているが、それにしても事件の本質を後世へと遺したという点での啄木の功績をあらためて評価したい。

 

ISHIKAWA Takuboku’s Recognition about the High Treason Incident

- In the context of the international impact of the case

 

Susumu Yamaizumi (Professor, Meiji University)

 Takuboku had a strong interest in the High Treason Incident in 1910-1911. His essays and poetry created in this period reflect this incident. Before World War II, YOSHIDA Koyo, who was interested in this subject, published Ishikawa Takuboku and the High Treason Incident in 1967. After that, KANZAKI Kiyoshi, IWAKI Yukinori, SHIMIZU Unosuke, KONDO Norihiko, OGAWA Taketoshi and others have deepened their study about this subject. In this report, I would like to review this problem.