石川啄木短歌の翻訳――筆者自身が翻訳した啄木短歌を中心に――

 

林水福(台湾・南臺科技大学教授)

 

一、 なぜ啄木短歌を翻訳するのか?

石川啄木がこの世に残した二冊の短歌集、特に人口に膾炙した『一握の砂』は、全人類にとっての文化遺産と言える。だが言葉の関係で、台湾では翻訳なしに作品を鑑賞できる人はやはり少数である。

 

二、先行の翻訳

1.全訳本

中国で最も早く啄木の短歌を翻訳したのは周作人(1895-1945、散文家、翻訳家、魯迅の弟)で、1962年に啄木の二冊の詩集全訳をした。周作人の翻訳は、口語体、散文的な翻訳法で、句読点を加えている。

2.部分訳

管見では6種ある。

A.1985年、卞鉄堅が『日語学習与研究』に発表した「石川啄木詩歌選訳」には二冊の詩集の中の38首の短歌が翻訳されている。

5/7/5」の形式で翻訳し、第一句及び第三句には「」(ei)の音で押韻している。

B.1988年、遼寧出版社が出版した趙楽甡著の『石川啄木』では、長短にこだわらない形式で68首の啄木短歌が収められている。

口語体で翻訳され、わかりやすいが、言葉が散漫過ぎるきらいがある。

C.1994年、李芒は『日語学習与研究』で「石川啄木短歌選訳」を発表し、「557」「755」「575」の形式で34首の啄木短歌を翻訳した。

どの句末も、「」(Wu)音で押韻している。

D.1995年、建宏出版社が出版した林丕雄著の『石川啄木』には、「743」の形式で訳した155首の啄木短歌が含まれている。

 定型での翻訳で、中には窮屈さを感じさせるものもある。「哀傷」「悲慟」「酸」など後ろ向きな感情を示す言葉が多過ぎる。

E.2004年、学林出版社が出版した彭恩華の『日本和歌史』には、七言絶句の形式で45首の啄木短歌が翻訳されている。

 中国文学の伝統的な絶句や律詩で翻訳しており、形式的には比較的「詩らしさ」が感じられる。だが、原文の特色が薄まってしまい、人の心を打ったり感動を引き起こしたりすることは難しい。

F.2004年、訳林出版社が出版した王暁平などの訳した『日本詩歌的伝統』(川本皓嗣著、原題『日本詩歌の伝統』)には4首の啄木短歌が翻訳されている。

57577」の形式で翻訳されている。前述したとおり、日本語から中国語に訳すと字数は減少する。同じ文字数を維持しようとするなら、原文にない内容の増加や同じ言葉の重複をしなければならない。「一縷輕煙裊裊去」が2回出てきているが、その理由は文字数を増やすためであろう。この翻訳は創作的な要素が多く、原文の詩の味わいはほとんどない。もちろんこれも一種の翻訳の在り方ではある。

 

三、筆者が翻訳した形式及び文体

筆者は現代の言葉を用い、散文式に啄木短歌を翻訳した。三行書きの形を使いながらも、1行の字数は内容によって調整し、統一はしていない。

 

四、翻訳方法

A.品詞の転化

ひとならび泳げるごとく               冬陽在高高低低

家家の高低の軒に             如成列游泳的人家走廊上

冬の日の舞ひ                跳舞                          (「手袋を脱ぐ時」)

 

B.中国語の詩のイメージを援用し、主語を転換する

空知川雪に埋もれて            大雪紛飛空知川不見

鳥も見えず                    鳥飛

岸辺の林に人ひとりいき         一人獨立 岸邊林中    (「忘れがたき人人」)

 

C.押韻するか否か

東海の小島の磯の白砂に          東海的小島海灘

われ泣きぬれて                       我淚濕了白砂

蟹とたはむる                           和螃蟹嬉玩                (「我を愛する歌」)

 

D.背景の地名を適度に加える

しんとして幅広き街の             寂靜ェ闊的札幌街道

秋の夜の                      秋天的夜晚

玉蜀黍の焼くるにほひよ          烤玉蜀黍香              (「忘れがたき人人」)

 

E.各行の位置の調整や行の字数の変更

馬鈴薯のうす紫の花に降る        都市的雨呀

雨を思へリ                              我想起故 那落在馬鈴薯淡紫色花上

都の雨に                                的雨啊                (「煙」)

 

五、おわりに

 小説に比べ、詩の翻訳は、比較的大きな調整、変更をすることが許されている、あるいはそうせざるを得ない面がある。これは筆者に「翻訳も一種の創作、制限のある創作だ」という楽しみを感じさせてくれるものなのである。

  もちろん、原作の理解がまだ浅いのではないかという不安、中国語の表現が完璧というには不足や至らない所があるという思いは、翻訳をするたびに感じることである。どうよりよく翻訳するかは、永遠の課題なのである。